<伊勢湾台風の記憶>

　静岡県の最北部にわたしの故郷がある。周囲を山に囲まれた地区で、私の家はその山に隣接した沢沿いにあった。夏の台風シーズンには急傾斜の沢が土石流となるために毎年、親戚の家に避難する準備をするのが恒例になっていた。その日も「とても大きな台風が来るらしい」といううわさがあった。小学5年の私はいつものようにランドセルに教科書をいれ衣服を着て、たたんだ布団に寄りかかっていた。雨はそれほどではなかった。吹いていた風も静かになったので、大丈夫らしいから、そろそろ寝るか、と父母が言って、６歳の妹が隣の部屋に行こうとしたその瞬間だった。ゴー、バリバリーというものすごい衝撃が襲ったのと、母が妹の名を呼んで抱き寄せたのと同時だった。真っ暗で何も見えず、目は開けておられずうつぶせになっていた。父が懐中電灯をかざして「屋根がない」と叫んだのが聞こえた。割れた窓ガラスの破片の上を素足で歩いた時の感触は今でも記憶にある。
　逃げなければと、這うようにして父が妹を背負い、板や鶏が風に飛んでいる中を近くの飯田線の中に避難した。入口から少し入ったところで避難準備品の袋の中からろうそくを取り出し、周りを和紙で囲った明かりで立ったまま朝を迎えた。翌日の空はまるで嘘のように晴れわたっていた。家のすぐ横の樹齢数十年の杉の木は根こそぎ倒され、周辺の斜面の杉は真ん中あたりから折れて、白い肌を見せていた。
　家は床から２メートルほど上がなくなり、ほぼ床だけの状態、むしり取られたようなかっこうであった。屋根は沢の向こうに飛ばされ逆さになっていた。親戚の人たちが駆け付け、飛ばされた屋根や木を集めて３分の１ほどの屋根を作った。役場からは見舞い品として毛布３枚を頂戴した。その夜、父が「寝ながら星を見るのははじめてだな」と言った。その毛布で親子４人がどれくらい過ごしたかの記憶はない。近くの家の一間を借りて生活しながら、１年くらいかけて家を建てる木材を少しずつ集めて、１年くらいあとにそれまでとは少し町の中にはいったところに家を建てた。
　今も家は残っているのだが、修理しようと床をめくったりすると、つぎはぎの部材がいたるところで見つかる。ローンなど組める制度もない時代に、2軒目の家を作るのにどれほどの苦労をしたのだろうかと思う。今でも水よりもどこから来るのかわからない風の台風に恐怖を感じる。